昭和五十七年 七月二十二日 朝の御理解

御理解 第五十九節 習うた事を忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。

 今朝ほどから、突然親先生の容体がまた悪くなられたそうで急遽あなたがおかげ頂きなさいという事で、今日御結界につかせて頂いたんですが、どういう神様の御神意なんだろうかと思いながら、今朝の御理解を教典を開かせて頂いたら、この御理解なんです、皆さん本当に、合楽で信心を習おうという気になったら十二分にいうておられる、神様がそれこそお互いが本気で習おうという気になったら十二分の事をいうておるんだぞという事を御理解から私は感じさせて頂きますね、もうあれをたとえば親先生がいい忘れとつたとかこれを一ついうておかねばならなかつたちいう事がないもう十二分に私はいってるんだということですね。
 ですから本気で習おうという気をまずおこす事だと思うんです合楽で信心させて頂く、合楽で信心のけいこを本気でさせて頂く信心の稽古をですね、本気でさせて頂こうという気にならせて頂くという事だと思うです、そこに例えばここに御理解五十九節の最後にありますようにも確実に神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びだという世界、いわゆる合楽世界に住めるんだという事ぢゃないでしょうか、それこそまいうならば自己満足的な信心ぢゃなくて神も喜び金光大神も喜び氏子もの喜びというほどしのおかげにつながってくるんだという事です。
 最近親先生がしきりにおっしゃる一切神愛論だからお互い今日一日本気で信心の稽古をしょうという気になってその答えが間違っておるかどうかまたそれが本当に今日も一日おかげを頂いたという喜びの答えが出るかどうか合楽の信心させて頂いて喜びというような答えが出ないならどこかそれは間違っておるとお互い思わなきゃいけない、ここに素晴らしい一つのお手本があるわけですからお互い例えばですね、けど実際にお手本があって稽古させて頂くとここのハネのところ、ここの流しのところはたとえば書道でいうならばですよ、どうしたらいいだろうかという事が本当は問題が起きてくるはずです。
 だからできたらね親先生の御在世中にしっかり稽古しょうという気になって書いてみなきやうそですよ、でここの一点一角に問題が出てくるはずなんです、それをあのやっぱり聞いておかなければあとで我流になってしまうという事あるだろう、けれども間違いなく今の合楽では習おうという気になれば必ずそこに手立てというか見本があるという事だけは、私達はあのう喜びとしなきゃいけない、昨日ある先生がおっしゃつて頂いて本当に合楽の御信者さんわ幸せだとおっしやるのはそこのところだと思うんですけれどもね、本気でまずは稽古をする気になって下さい、稽古をするという気になるとそこに私達の場合はどこに信心の焦点をおいて信心の稽古をしたらいいかという事がそれこそ事細かに説いて下さって事に改めてきずくと思います、どうぞおかげを頂きました。
                    どうぞ